Interview with Japanese author Mishima Yukio (1925-1970) in 1960s about life and death in post war Japan.
The full interview in Japanese with English subtitles:
http://www.youtube.com/watch?v=NeskvAXHfZw
Music: "Song for the Boys" by Pat Metheny
Script:
終戦の詔勅自体については私は不思議な感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでした。今までの自分の生きて来た世界がこのままどこへ向かって変わって行くのか。それは不思議でたまらなかった。そして戦争は澄んだら、あるいは戦争に負けたら、この世界崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々が、みどりが、濃い夏の光浴びている。
そのあと二十年は、一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建に値するものはなかったんではないか。
リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマチックな死が出来なくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいくというようなことどこかで書いていた記憶がしますが。今現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ何らのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我々は生きております。
それと死ぬのも何かのためということは必ず出てくる。それは昔言われた「大義」というものです。そして大義のために死ぬということは人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死にかたというふうに考えられている。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんといらない政治形態ですから。当然なんですが。それでも、心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味なるというような心理状態ないわけではない。
自分に返って考えてみますと、死を、いつか来るんだと、決して遠くない将来に来るんだというふうに考えいたときの心理状態は今に比べたら幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間そういうときに妙に幸福になる。そして今我々求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということは、あるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり、楽しみでありますでしょうが。しかしあんな自分が死ぬと決まっている人間というものは今ちょっとないじゃないか。そういうことを考えて死というもの、じゃお前恐れないのか?それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも、一番嫌で。考えるだに恐ろしい。それだけに、なんかもっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局[はぐれ」の著者のように、生まれて来た時代が悪くて、一生そういうことを思い暮しながら畳の上で死ぬことになるだろうと思います。